軍犬_金剛、那智の話

_以下の話は、「金剛、那智の記念碑」のあった奉天(瀋陽)の加茂国民学校で行われた慰霊祭において、神奈川県逗子市の逗子高等女学校の先生をしておられた板倉鎮子氏が小学生に話されたものです。_(週間小国民_昭和17年10月4日号から)


_那智は中華民国の青島の浅野浩利さんのお家で生まれました。お母さん犬は小夜丸というシェパードです。仔犬は全部で7匹生まれました。オスの4頭は戦艦の名を取って、金剛、長門、陸奥、榛名とつけられ、雌の3頭は那智、摩耶、高雄と巡洋艦の名を付けてもらいました。

_無敵の我が軍艦のように7頭とも揃って身体の丈夫な賢い犬ばかりでした。そのうちでも那智はとりわけ利口なので、当時奉天の独立守備隊第二大隊で軍犬班の将校だった板倉大尉の許で立派な軍用犬にしようとはるばる満州に行くことになりました。

_しかし浅野のおばさんは小さい那智がたった一人海山越えて遠いところへ行くのが可哀想でたまらないのでいろいろ考えられた末、それではもう1頭献納しようと、金剛と一緒にして大連行きの奉天丸に預けられました。二匹にすれば、途中淋しいことはなかろうとの思いやりが、とうとう冥土の旅まで道伴れになってしまったとはよくせきの因縁とでもいうのでしょう。

_金剛、那智の兄妹犬は大連で板倉大尉に迎えられて奉天に着きました。着くとすぐ猛烈な訓練が始まりました。

_その当時満州は、いつ戦争があるかもわからないという危い時だったのです。しかし、那智、金剛はさすがに難しい訓練にもすぐ馴れて、隊でも評判の犬になりました。そうこうするうちに満州事変が奉天から少し離れた柳條湖で始まりました。こういう場合にこそ軍犬は活躍しなければならないと、金剛、那智は勇躍出発しました。何しろ敵は1万2千の大勢で北大営という兵舎に立て籠もって居ましたので、味方は僅か5百名だけでしたから夜襲することになり、金剛、那智も参戦を許され、初めて本当の戦争に出たのでした。

_味方はみんな勇敢に戦ったので翌19日朝とうとう北大営を占領、敵をさんざんやっつけました。金剛、那智は敵弾雨の中を伝令の任務に服しましたが、敵は何しろ大勢ですから激しい戦いとなり、そのうえ夜の戦争ですから兵隊さんも犬もバラバラになってしまいました。

_日露戦争で部下の杉野兵曹長を見失った廣瀬中佐のように、板倉大尉は金剛、那智を捜しまわりましたが、行方がわかりません。
_その当時の様子を元の飼主だった浅野さんに宛てた板倉大尉の手紙を読んでみますと

「午後11時より翌朝6時に亘る暗夜の激戦のこととて人犬相離れ、主は犬を求め、犬は主を捜すも、天明に至るも遂に那智、金剛の姿なく、戦闘以来三日、北大営内を隈なく捜索せしに金剛号は敵弾のため腹部貫通銃創、那智号は胸部貫通銃創をうけ、共に戦死しありを発見、誠に残念に有之候。勇敢なる戦士として敵弾のため名誉の戦死をとげたるは軍用犬のため決して無駄死にあらず、後輩幾多軍犬の発展上大なる功績をあげたるものと確信致し居候。北大営戦死の地に墓標を建てその霊を慰め申候。」

_板倉大尉は、冒頭の板倉鎮子氏のご主人で、この手紙から間もなく、錦州において戦死された。


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